「普通」って、誰が決めた?

「普通」って、誰が決めた?

「普通にして。」
「普通はこうするよ。」
「そんなの普通じゃない。」
私たちは毎日のように、「普通」という言葉を使っています。
何気なく使っているその言葉に、悪気はないかもしれません。
むしろ、会話の中では当たり前のように飛び交っています。

でも、一度だけ考えてみてほしいのです。その「普通」は、一体誰が決めたのでしょうか。

「普通」は、人によって違う。
朝7時に起きるのが普通という人もいれば、夜勤の仕事をしている人にとっては夜7時に起きるのが普通です。
ご飯を箸で食べるのが普通の国もあれば、スプーンや手で食べるのが普通の国もあります。
家族と暮らすのが普通という人もいれば、一人暮らしが普通の人もいます。

つまり、「普通」というものは、育った環境や文化、経験によって簡単に変わるものなのです。
それなのに、私たちは自分の中の「普通」を、無意識のうちに他人にも当てはめてしまいます。

障害のある人が感じる「普通」
障害のある方と関わる中で、私は何度も考えさせられる場面がありました。

「ちゃんと目を見て話せない。」
「人前で話すのが苦手。」
「大きな音が苦手。」
「予定が急に変わると混乱してしまう。」
「文字を書くのに時間がかかる。」
こうした姿を見ると、「普通ならできるでしょ」と思ってしまう人がいるかもしれません。
でも、それは本当に“普通”なのでしょうか。

私たちが簡単にできることが、その人にとってはとても難しいこともあります。
逆に、その人が簡単にできることを、私たちは苦手としているかもしれません。

得意も苦手も、人それぞれです。
それなのに、「普通」を基準にしてしまうと、できないことばかりに目についてしまいます。

「普通」は、人を苦しめることがある。
「普通に歩けるよね?」
「普通は働くよね。」
「普通は結婚するよね。」
「普通は友達がいるよね。」
「普通は空気を読むよね。」
こうした言葉を言われ続けたら、どう感じるでしょうか。
きっと、「自分は普通じゃないんだ」と思ってしまう人もいるでしょう。でも、本当にそうでしょうか。

誰もが何かしらの苦手や不安を抱えています。
人前で話せない人。数字が苦手な人。運動が苦手な人。人付き合いが苦手な人。

実は、「普通」と言われる人も、何かしら普通ではない部分を持っています。違いがあるのは当たり前なのです。

私たちは、誰かの「普通」に合わせていきている。
学校では、みんな同じ時間に登校します。同じように授業を受けます。同じにテストを受けます。
社会に出ても、決まった時間に働き、決まったコミュニケーションを取り、決まったルールの中で生活しています。
もちろん、ルールは必要です。

しかし、その一方で「みんな同じようにできること」が前提になっている場面も少なくありません。
その前提から少し外れただけで、「変わっている」「協調性がない」と見られてしまうことがあります。
でも、本当に問題なのは、その人なのでしょうか。それとも、「一つの普通しか認めない社会」なのでしょうか。

「できない」ではなく、「違う」
障害のある方と接していると、「できない」と決めつけることが、いかに簡単で危ういことかを感じます。
やり方を変えればできる。時間をかければできる。道具を変えればできる。周りが少し工夫すればできる。

つまり、「できない」のではなく、「方法が違う」だけという場面も少なくありません。
例えば、階段しかない建物では車いすの人は入れません。しかし、スロープやエレベーターがあれば、その人は「行けない人」ではなくなります。できない原因は、その人ではなく環境にあることも多いのです。

「普通」に合わせることがゴールではない。
障害のある方に限らず、誰もが「普通になろう」と努力する場面があります。
周りに合わせよう。嫌われないようにしよう。目立たないようにしよう。そんな気持ちは、多くの人が経験したことがあるはずです。
でも、本当に目指すべきなのは「普通になること」なのでしょうか。

一人ひとり違うからこそ、新しい考えが生まれます。違う価値観があるからこそ、社会は豊かになります。
もし全員が同じ考え方、同じ行動、同じ価値観だったら、とても窮屈な世界になってしまうでしょう。

「普通」を少し手放してみる。
もし今日から、「なんでこの人は普通にできないんだろう。」ではなく、「この人にとっての普通は何だろう。」
そう考えられる人が一人でも増えたら、社会はきっと少しだけ優しくなります。

理解することは、特別な知識を身につけることではありません。
相手の立場を想像してみること。
「自分と違う」ではなく、「そういう人もいる」と受け止めること。その積み重ねが、本当の理解につながるのだと思います。

最後に。
「普通」という言葉は、とても便利です。
だからこそ、私たちは無意識に使ってしまいます。
でも、その一言が、誰かを安心させることもあれば、深く傷付けることもあります。

障害のある人も、ない人も。子どもも、大人も。誰一人として、まったく同じ人はいません。
だから、「普通」で人を測るのではなく、「その人らしさ」で向き合ってみませんか。
もしかすると、「普通」という物差しを手放したとき、私たちは初めて、一人ひとりの個性や魅力に気づけるのかもしれません。
そして、障害の理解とは、「障害について詳しくなること」だけではありません。

自分の中にある“普通”という思い込みに気づき、それを少しだけ広げてみること。その小さな一歩が、誰かにとって生きやすい社会をつくる、大きな一歩になると私は信じています。